H.アレント『全体主義の起源』講義レジュメ(未完)

アレント「全体主義の起源」講義レジュメ(未完)

※以下は、某SNSで交わされた討議のなかで書かれたものです。

アレント理解の一助となれば幸いです。

多々認識のあやまりがあればご指摘ください。

********************************************************************************************************************

アレント「全体主義の起源」を初心者むけにレクチャーするとしたら・・・、ぼくだったらこんな感じで話します、という文章です。
記憶だけで書くので曖昧だったり過度の単純化があろうかと思いますが、まぁ、乞容赦です。 しかも「起源」ですから、全体主義そのものの話になるまで助走がとても長く感じられるかも知れません、その点も乞容赦です。

1.モッブ
2.諸条件・諸過程 (1)~(5)
3.ユダヤ人
4.ナチズム
5.全体主義とそれ以後

【1】モッブ

大衆社会の出現が全体主義の条件になったことはよく言われる話で(有名なところでオルテガ、フロム、リースマンなど)、アレントの全体主義論もそこに分類されたりするわけですが、アレントのいう「モッブ」というのは一般的に辞書的に定義された無色透明な大衆ではなくて、「あらゆる階級から零れ落ちた存在」という、かなり限定的で狭い概念、世紀末から20世紀初頭にかけて具体的に存在したものを指しています。

工業化の進展にともなって都市に流入した「故郷から切り離された存在」が大量に現れ、他方では故郷自体が衰退していったために人口の大多数を故郷喪失者が占めるようになる・・・、これが大衆社会の出現についての一般的理解で、アレントも、一応そうした理解は踏襲しています。
しかしアレントが強調するモッブ概念にはさらにもう一段階あるわけです。つまり、たとえ都市労働者大衆であっても、たとえば労働組合などによって組織されていれば、かろうじて「零れ落ちた存在」にはならない、と。そうではなく、労働市場で敗れ、さらに何らかの条件下で組織に守られなかった存在が真の「モッブ」となります。

また、底辺層の労働者だけでなく、世紀末から投機が盛んになっていくなかで、ひと晩にして破産し、生活基盤を一挙に失う人間も大量に現れてきます。これは「あらゆる階級」において起こった出来事で、こうやって「零れ落ちた」人間は労働者だけではありませんでした。アイヒマン裁判のアイヒマンも、決して貧しい階層の出身ではなかったものの、こうした「あらゆる階級から零れ落ちた存在」としてのモッブだったわけです。

こうしたモッブは、故郷や組織や生活などの「根」を失っているために、じぶんの行動を外から律してくれるものを持っていない・・・、そうすると極論すれば「なんでもあり」になっていきます。じぶんに関係ないとしか思えない古めかしい因習-伝統なんかは壊してよろしい、むしろ既成の社会秩序がじぶんを苦しめているのならそれを壊してしまえ。ついそう思ってしまうメンタリティには、大言壮語するデマゴーグにひっかかりやすい面があるわけです・・・、という話はよく指摘されるところだと思います。

しかしそれだけでなく、彼らもそんなにバカじゃないから薄々デマゴーグの言うことはウソなんじゃないか、とも思っているわけです。でも、ウソでもいいからその煽動にのってしまおう。どのみち先行きは暗いのだから、「ウソだから何なの?」と居直ったりする。こういうのをスローターダイクは「シニシズム」(ニヒリズム一般からは区別された、ニヒリズムの最高段階のようなもの)と呼び、一般大衆から体制の中枢まで蔓延していたメンタリティだといいます。

「ウソだから何なの?」というシニシズムを、底辺層は生活の悲惨さから身につけていくわけです。しかし、伝統のくびきや呪縛が急速に薄れていくなかで、生活の困難に出会っていない人間までにもシニシズムは浸透していきます。
たとえば、オルテガの大衆社会論はエリート主義的で大衆蔑視であるなどとも言われますが、オルトガ自身が「真に堕落した大衆は象牙の塔にこもった学者なんだ」と言ってます。スローターダイク風にいえば、これは「啓蒙された野蛮」というものです。明晰すぎる知性が行き着く極北にも「なんでもあり」があるわけです。アレントは、こうしたシンクロ状況を指して「モッブとエリートの同盟」といいます。

これらが全体主義の温床になったとして。しかし、ここからナチズムやスターリニズムのような全体主義が現実に成立するためにはいくつかの段階があります。その全部を確認する余裕はないですが、まずは言い古された出発点を確認しました。

また、これらのモッブは、自分自身を社会から零れ落ち、弾き出された「ゴミ」のように感じていたわけです。これが反転して、やがて他者をゴミのように扱い、ゴミのように焼却処分するシステムが出来上がっていくわけです。
そうした全体主義の中核的な性格が、すでにこの出発点のなかにネガのような格好で現れていたことを最初に確認しました。

* 石川啄木のいう「何か楽しいことはないか?」という言葉には不吉な響きがある、というのはまさにモッブの心性に対応するもののように思われます。しかし、昭和に到る道行おける日本人の閉塞感と「あらゆる階級から零れ落ちた存在」の閉塞感とをイコールで結ぶのはやや問題かも知れません。

【2】諸条件・諸過程
(1)時間意識について

「なんでもあり」というのは価値判断の自由というよりも、価値判断そのものの解体とも言えます。そうした考えの背後には「すべてが可能」という認識の広がりがあるんだとアレントは言います。
しかし「すべてが可能」というのはそれほどバラ色でもないわけです。つまり、売春も可能、殺人も可能、あるいは組織的な人種の絶滅も可能ということです。

ところで「すべてが可能」という認識はどこから出てくるかといえば、1つには、見田宗介的にいえば近代的な「直線的時間」が作用しているとアレントは考えてるようです。アレントも見田と同じような論文をべつの本で書いています。(「過去と未来のあいだ」)

以下、見田の議論(「時間の比較社会学」)を参考にしてそのへんの補助線を引いておくと・・・、

ユダヤ-キリスト教的な時間意識は「線分的時間」と呼ばれ、これは点Aと点B、つまり創世記と最後の審判にはさまれた時間だけが人間の生きる時間であるという意識のありようです。これには「限界」がある、したがって「すべては可能」とはなりません。
また、多くの農業社会がそうであるような「円環的時間」というのもあります。これはすべては移ろうけれども同じところに回帰してくるという意識ですから、この世界は限界を超えて未知の新しいものが出来するということは認められません。

これらはウェーバー風にいえば「魔術の園」の住人の意識にも見えます。しかし、線分的時間であれば、はじめと終わりを司る神によって、また円環的時間であれば、流転を司る神々によって、個々の出来事は意味づけられます。はじまりに照らして、終わりに照らして、あるいは循環のなかの位置どりによって、個々に意味が与えられるわけです。

ところが、直線というのは無限に延長できます。「線分AB」を超えて補助線が引けるのが「直線A」です。ここでは個々の出来事を意味づける枠組みが失効しています。少なくとも、つぎつぎ枠組みのほうもまた変移していくことがあらかじめ見通されている・・・、そうすると、個々の意味は揺さぶられるわけです。
意味への不安、これを素朴な意味でのニヒリズムと言っていいとして、そのニヒリズムは、近代的な直線的時間意識の相関物であるというのが見田ならびにアレントの基本認識といっていいように思えます。

ちなみに「終わり」を意味する英語「end」に否定の接頭辞をつけると「endless」ですが、endには「目的」という意味もあったわけです。つまり、近代的な直線的時間は、他の時間形態と異なって、無限に、エンドレスに直進するとともに、その時間意識においては目的意識もたえず揺さぶられるわけです。生きる目的の喪失・・・ニヒリズムをこう表現することもできなくはない、というわけです。

限界を超えて進む時間のなかでは「すべてが可能」になる。そして、意味や目的意識や時間を司る神々の伝統が失効してしまうと「なんでもあり」の考えも出てきやすくなる。ここに世紀末以来の「あらゆる階級の脱落者」が大量発生するという現象が重なったとして。

ここでアレントは「無限の増殖」を俎上にのせます。まえおきが長くなりましたが、「起源」第Ⅱ巻の冒頭がこの議論です。
もちろん、これはマルクスを意識しているわけですが、マルクスとは違った点を強調します。(この段階では、マルクスに+αを加えた議論に読めますが、ソ連の全体主義批判をつうじて、マルクスの批判へと転じていく・・・それを書いたのが「人間の条件」です)

ある帝国主義者は「惑星すら俺のもの」と言ったそうですが、そこには無限の増殖過程の果てに「すべてが可能」になるという意識がありありと現れている・・・。以下、節をかえて。

* 村上一郎「北一輝論」でもこのような時間意識については言及されています。個人的には近代思想史を考えるのであれば、それなりに重要な分析視点と思っています。

* 「すべてが可能」というのは、三島由紀夫における「すべてが許されている」に近似するものとも思うのですが、三島の場合はどちらかといえば祝祭的な性格が強いんじゃないか、という気がします。

* ここでいうニヒリズムはとても素朴な水準の話です。べつの場所で触れた「神を信じることそのものがニヒリズムなのだ」というのは、永井均のニーチェ解釈によります。

(2)増殖

アレントによれば、ホッブズの思想において初めて「増殖」の契機が現れたといいます。
プラトンにせよマキャベリにせよ、彼らの議論ではすでに与件として確固たる真理や秩序が存在していて、隠れたる真理を実現するとか、秩序の破調を権力のやりくりによって回復する、均衡をもたらすということが課題だったわけです。
ところがホッブズの場合、与件となる自然状態では、互いが互いに対して狼だから、そのままにしておけば死滅を待つだけです。しかし、社会契約をつうじて、まったく新しい権力、多数意志にすら還元されない、それ以前にはどこにも存在していなかった権力が新たに創出される・・・。そういうことをホッブズは論じているわけです。しかも、死滅の脅威を完全に除去することは不可能だから、権力はより強大になっていく傾向性があらかじめ孕まれていた・・・云々。

アレントは、無から有がつくりだされる論理をホッブズが発明したとでも言いたいのだろうと思います。ただ、この指摘自体は妥当かどうか、とても怪しい気がします。話半分に聞いていい、そんなふうに感じます。
(ちなみに、似たような議論を、アルチュセールがロックを題材にしながら論じています)

ともあれ、ここでのポイントは、無限の増殖をめざす資本の運動が、ただただ資本の本質がそういうものだから、という理由だけそう動くわけではなくて、それを支える思想の厚みのなかでそうなっているのだ、ということなんだろうと思います。こうした視点は「人間の条件」のほうでより明確になるのですが、とりあえず「はいはい」ということで先にすすむとして。

問題は、全体主義を生み出した土台としての帝国主義です。

一番最初に大衆社会とモッブについて触れ、そのつぎに時間意識とニヒリズムについて触れましたが、あれらはせいぜい全体主義の温床、あるいは「プル要因」といった類です。それに対して帝国主義は、もう少しモーター的な「プッシュ要因」としての広範な作用を及ぼします。だからホッブズまで持ち出して、増殖が特異な現象であることをあれこれ強調しようとしてるのだと思いますが・・・、

その帝国主義についてアレントは、ホブソンなどの先行研究を引きつつ、しかし「それは単なる経済現象ではないのだ」と強調します。つまり、とても単純な話、資本の輸出は必ず統治機構、あるいは権力の輸出をともなうわけです。しかも、さっきのホッブズのように、あるいは前節の最後で触れた、とある帝国主義者の言葉のように、それは思考さえ規定する部分があったりするわけです。

そうやって帝国主義が、増殖の思考、あるいは権力の輸出をつうじて植民地へのりだしたとき、「あらゆる階級から零れ落ちた存在」たるモッブまでが輸出されることになります。宗主国本国ではやっていけない「はぐれ者」が海外雄飛をはかります。モッブの植民地への輸出、これをアレントは「モッブと資本の同盟」と呼びます。

この植民地での経験が全体主義的統治の雛形になるわけですが、それは節をかえて。
ところで、これは次回に触れる話ですが、もっとも増殖の思考を強く貫徹し、したがって植民地を一番たくさん持った帝国主義国がイギリスだったこと、つまりドイツではなかったことに留意して下さい。ナチズムをドイツの一国史から説明しない「起源」のセールスポイントの1つがここにあります。

* 松本健一は農本主義が大陸進出に傾斜していく理路を論じていますが、これは「起源」を横に置いてみると面白く感じられます。
近代日本は輸出すべき資本をほとんど持っていなかったにもかかわらず帝国主義化しましたが、これは古典的な帝国主義論、つまり、資本の過剰ゆえに帝国主義化するという経済主義的な説明には適わないわけです。
日本のみならず、帝国主義を経済的な側面からのみ説明するのでは足りない部分がある・・・ということで、アレントはやや強引ながらホッブズなどを持ち出したわけですが、日本の不可思議な帝国主義化も、やはり文化や思想のほうから説明すべきことが多々あるという、まぁ、当然といえば当然な話なわけですが。

* このくだりでアレントはローザ・ルクセンブルグに依拠しているのですが、ローザのアレントへの影響の大きさにもかかわらず、直接の引用はここだけのようです。

(3)植民地

植民地での統治経験が全体主義の雛形になったというとき、ポイントは2つくらいあるようです。1つは「モッブと資本の同盟」によって、モッブが実際に支配に参加したことです。もちろん植民地総督府の中核メンバーとして、というわけではないのですが、支配者側として、あるいは実際に総督府の走狗として、モッブたちは振舞うことができた・・・、この点が大きいわけです。
ちなみに有名なアラビアのロレンスは中東で活躍し、アラブ民族の独立のために戦った英雄と見られましたが、ロレンスの文学的な著作のなかに現れている気分はニヒリズムそのものでした。アレントは、植民地世界に漂っていた雰囲気を、こういった方向からも傍証しています。

もう1つには官僚制の専制が、植民地でこそ突出しえたということがあります。ここでアレントは、カフカの小説などを引用しながら官僚制支配の特色を読者にイメージさせようとしますが、一言でいってそれは全体を見通すことのできない不透明な「城」です。

つぎに図式的な説明がなされるのですが、ここでは典型的な対概念が利用されます。つまり、官僚制と政治、あるいは政令の支配と法の支配です。
どういう違いがあるかといえば、法の支配は形式的にせよ議会での討議をつうじて制定されるのであって、たとえ僅かでも外部に開かれているわけです。あるいは、議会というのは顔のみえる政治家がじぶんの信念を責任をもって貫く場でもあるわけです、たとえどんなに無能であろうとも。
アレントは、ここで政治と官僚制のどちらに肩入れしてのか一瞬わからないくらいに、当時の政治家に対しては辛辣な書き方をしてる部分があります。そして、たしかに官僚というのは優秀だったりするわけです。しかし、官僚というのはモッブと同じように匿名の存在で、統治の結果に責任を負いません。そうした顔の見えない官僚たちが、被支配者の住むエリアからは遠く隔てられた「城」の中枢で、秘密裡に打ち立てた計算図式によって政令を発布して統治を行なうのが「政令の支配」です。

宗主国本国で官僚たちは、実質がどうあれ政治家が決定した事柄を忠実に執行する手足のような存在でした。ところが、帝国主義が海外進出して植民地統治が始まると、官僚たちは政治家の「くびき」を離れ、じぶんの思い描く統治を自由に実現しうる環境を得ました。実際、植民地の官僚たちには相当な気負いもあったようです、これからは俺たちの時代だぞ、と。
こうして植民地でこそ官僚の専制が先鋭化する条件があったわけです。

厳密にいうと一般化はできないみたいなんですが、ごく大雑把に言って、植民地は本国ではないわけで、つまり、本国における「法の支配」に服さなくていい場所ということになります。本国に対して植民地は外部であって、いわば「無法地帯」なわけです。無法地帯というのは「すべてが可能」で「なんでもあり」になります。
そういう「なんでもあり」の無法地帯の荒野で、気負った官僚たちがモッブたちとともに「城」に立て篭もって「政令の支配」を貫徹します。
このあたりの不気味さを、アレントはコンラッド「闇の奥」などを傍証に利用しています。

そこでは様々な「実験」が行なわれました。法に縛られない官僚たちが「なんでもあり」ということで、あれもこれもといろんな試みをしたわけです。
これがただちにイコール全体主義ということではありません。
よく言われるように、本国ではいろんな制約があって出来なかった近代的なインフラストラクチャーの大規模な整備など、そういう恩恵的な側面もあったんだと、明るい面をやたら強調するひともいたりします。しかし、そういう面を含めて、植民地は「統治技法の実験室」だったわけです。
もちろん凄惨な暴力もありました。そして問題なのは、それが植民地という例外的な場所での1回的で突発的な出来事として終わるのでなく、まさにそこで実験されたものがヨーロッパ本土に回帰してきたときにこそ、全体主義体制が成立したということです。

アレントはこういう言葉を使っていませんが、ようするに「ブーメラン効果」なのだと理解できると思います。

次回、少し補足します。

* 橋川文三「新官僚の思想」を連想するところです。また、昭和の新官僚たちにおけるマルクス主義の問題は、「起源」第Ⅲ巻で論じられるスターリニズムの問題と対照が可能かも知れません。ただ、おそらく個人的な感触でいえば、日本の総力戦体制はアレントのいうところの全体主義に入れることは難しいという気がします。

* 日本でも「ブーメラン効果」は意図的に目指されたと思います。つまり、満州帝国は本土の総力戦体制の雛形だった、と。
補足が2つあります。

1つは、植民地支配を無法地帯における暴力とだけ捉えると間違うということです。これは、アレントがのちの「人間の条件」で強調し、しかし「起源」ではまだあんまり前面に出てきていない話で、むしろフーコーによって人口に膾炙するようになった話なのですが、つまり、前近代的な権力は「死なせるか、生きるままにしておくか」というかたちで制裁与奪の権を握るところにポイントがあったのに対して、近代的な権力は「生きさせるか、死の中へ廃棄するか」という作用の仕方をする、ということです。

どういうことかといえば簡単な話で、前近代的な権力は被支配者に対して死の威嚇を与えるところに力点があったから、生きるかどうかには関知しなかったわけです。「死の威嚇」を重要視するからこそ、刑罰は華々しかったといいます。
ところが近代以降、人口の量や質が富や権力の源泉として発見されて、とにかく「生き長らえさせること」に力点が置かれるようになります。素朴な話、労働者を生きさせ、むしろ充実した生命力をもってもらうことによってこそ、全体の富や権力を増殖させようという話です。

だから、植民地などでは典型的に、総督府は「羊飼い=牧人」として振る舞って、羊たちを生きさせ、その生がもたらす果実の上澄みを搾り取ろうと努めます。インフラストラクチャーの整備、あるいは公衆衛生政策というのは、善意とはぜんぜん関係ないんです。少なくとも、かりに存在したかも知れない「善意」でさえ、フーコーが言う「生きさせる」権力作用の一貫である、ということにはなるはずです。

また、こうした「生-権力」のうちの「死の中へ廃棄する」という側面についてはややわかりにくいかも知れませんが、ただ、それは、古い権力が敵や反乱分子を華々しく刑殺して自身の力を誇示する、というのとは違っているわけです。そうではなくて、主眼は「生きさせる」ことにあるので、もはや生きられなくなった存在や「生きるに値しない」と見なされた存在は「ゴミ」なのであって、それらは密かに廃棄処分すればいい、ということになります。

この点は、一見すると20世紀における大量死と正反対に見えるかも知れませんが、必ずしもそうではないと考えられます。
人口の量への配慮は同時に質への干渉をともなうわけですが、そのシステマティックで官僚的な表現が、世紀の前半を風靡した一連の優生政策です。良質の生命だけを残し、不良な生命は廃棄する・・・、これを全面的に実現しようとしたわけです。
こうした優生政策とある部分では共鳴し、またべつの部分では反発しあいながら台頭したものとして民族浄化思想があるわけです。こうした視点で民族浄化を捉えると、そこで他民族を「ゴミ」のように扱い、また自民族の内部にある汚れを浄化しようという衝迫のなかで問題になっているのは「死」ではなく「生」であることが了解できるのではないでしょうか。

この点はナチズムのところでまた触れます。

それからもう1点を補足しますが、まえにも触れたように、植民地の経験が全体主義の雛形になったというときに、アレントはドイツの一国史では考えていません。

ホッブズが増殖の思考を準備し、帝国主義の先頭を切ったイギリスで全体主義的統治の実験が行なわれ・・・、それらがヨーロッパ本土に跳ね返ってきて、モッブたちの支持を受けながら、もっともグロテスクなかたちで、諸問題を集約したかたちで出現したのが全体主義だ、という捉え方です。
歴史にはいくつかの分岐点があって、多段階的に諸現象が現れてくる・・・、そして、相互作用のなかで歴史はあるんだ、ということだと思います。

だから、全体主義はナチスの専売特許ではなくて、その雛形はイギリスがつくりあげたと強調されます。そもそも他者を「ゴミ」として扱う以前に、「ゴミ」同様のモッブが繁殖し、それらが全体主義を支えたわけでした。
また、パリやロンドンにおける近代都市建設で公衆衛生が重視されたのも、植民地統治とのシンクロにおいて捉えるべきだと思うのですが、植民地で実験された統治の諸技法がヨーロッパ本国に跳ね返っていくとき、そこではいわば「自己植民地化」が行なわれていると言ってもいいように思います。植民地の人間に対するように自国民に対するのですから。
それから、さきほど優生政策に少し触れましたが、あれもイギリスで誕生したものです。それがアメリカを経由してドイツに輸入されたわけです。あとで触れるナチスの選民思想にしても、そもそもユダヤ教の模倣であって・・・、そうした様々な模倣の束として、あるいは世界の諸現象の陰画として、ナチズムはあります。こうした「鏡像関係」というべきものを、アレントは捉えようとしているわけです。
(「鏡像」というのはラカンの用語で、本来アレントのことを語るのに相応しくありませんが、とてもフィットする気がしたので使って見ました。もとの意味を正確に踏襲してるわけじゃありませんが・・・)

こうしたアレントの視点は一部で批判されました。問題の所在をヨーロッパの全体に拡散させ、ドイツの責任を矮小化するものである、と。
しかし、誰かに責任を負わせる決定と事態を理解することとはまったく違う次元の営みのはずです。それを混同する人間の無責任さを思うべきかと思うのですが、どうでしょうか。

ややアレントから離れすぎたので、次からアレントに戻ります。
以下、来週末にでも。

* 戦時体制下の日本の思想状況を一言で「死なねばならぬ!」と要約するやり方は、一方における実感や経験、またナチズムとの対比においてそういう側面があったとは言えると思うのですが、以上の生-権力論に照らして、そもそものナチズムの規定において個人的には足りないものを感じます。それとの対比で語られる日本についても「それだけだろうか?」という感触があって・・・、ただ、以前の日記でぼくは「日本にはアウシュビッツはなかったがハンセン病隔離はあった」と書きました。このへんをとっかかりにしたいという思いはあります。

(4)2つの帝国主義

ここで書くことの8割方は世界史の復習のようなものですが、ただ、それらの知識にアレントがどのような線を引いたか、そこが読むべきポイントのように思えます。結論的に述べられることのなかにはアレント特有の事態の把握や、あとで触れる全体主義の特質を理解するための伏線となる認識が含まれています。

まえに確認したように、全体主義的統治の雛形をつくったのが植民地の経験だとして、・・・しかし、その植民地支配をもっとも典型的に遂行したのはドイツやロシアでなく、イギリスとフランスでした。それら英仏を、アレントは「海洋帝国主義」と呼んでいます。そのままの意味、海をはさんだ外国を植民地化するタイプです。

これに対して、後進帝国主義たるドイツやロシアは「大陸帝国主義」と呼ばれます。
問題なのは、単に両者を区別することでなくて、前者から「鏡像」のようにして後者が生まれ、しかも後者には「種族的ナショナリズム」という特殊な性格が加わったという理路だろうと思います。

そして、この種族的ナショナリズムの表現たる汎ゲルマン主義からナチズムが、凡スラブ主義からスターリニズムが生まれるわけです。
アレントが考えた全体主義的支配の成立過程では、何度も繰り返すように、海洋帝国主義による植民地の経験が重要だったわけですが、それが全体主義へと成長するためには、大陸帝国主義における種族的ナショナリズムが触媒にならなければならかった・・・そういう順序のようです。
念のため確認しておけば、植民地支配や種族的ナショナリズムは、それ単独では全体主義ではないわけです。

(ちなみに、汎アラブ主義からはサダム・フセインが出てくるわけで、それぞれ旧帝国の解体に対応しています。おそらく毛沢東もここに入れていいんでしょう・・・、アレントは、毛沢東に何ら幻想を抱いてないようです)

ここで英仏のことに触れます。やや本筋から離れますが、パノラマ的な類型論として面白いだけでなく、アレントのポジショニングを理解するためにも無駄ではないと思います。

イギリスは階級社会です。そして2つの階級が互いに相容れないほど分立しているにもかかわらず、かろうじて2大政党制によって繋ぎ止められています。
この経験が植民地支配でも生かされている、とアレントは見たようです。イギリスの場合、本国と植民地とは完全に分離され、べつべつの支配原理が用いられましたが、かろうじて全体主義の一歩手前で踏み止まります。これは、イギリスが分裂したものを1つにまとめあげる経験をそれなりに持っていたからだろうということだと思います。
あとで触れるように、アレントのいう全体主義には、ほとんど自己破壊的な性格があるのですが、イギリスにおける「分裂を回避する技法」は、そうした自己破壊的性格とは正反対のベクトルをもつと位置づけられそうです。

もちろんアレントは、帝国主義をそのまま容認するわけでもないのでしょうが、全体主義よりはマシ、というくらいの気分かも知れません。
と同時に、アレントには隠すことのできないイギリス評価もあったように見えます。というのも、伝記によれば、アレントはシオニズムを批判しつつ、英連邦下のアラブ・イスラエルの共存に期待をかけたりしたそうですが、そこでは「権力の重し」を必要と考えるだけでなく、イギリスの老練さへの信頼も見え隠れしていると思うからです。

他方、フランスは「典型的な国民国家」として、植民地にも本国同様の法を適用するという普遍主義をとりました。たしかに理想主義的ではあるのですが、アレントはあまり評価してないようです。結局のところ、法的権利が文字どおりに実現するためにはそれに対応する社会的条件が必要で、フランスの場合はそれが欠けていたということでしょうか。
フランスは農業王国であり、絶対王政時代に急速な「上からの」近代化を遂げました。日の浅い法的理想は額面どおりには受けとれない、ということかも知れません。

実際のところ、フランスで起こったドレフェス事件を指して、アレントは「全体主義の予行演習」だったと言います。アレントが収容所を経験して死を想ったのもフランスでした。

このあとアレントはオーストリアやイタリアに触れます。あるいみで執拗な脇固めです。なぜドイツやロシアでこそ全体主義が実現したのか、そのことを言うための比較研究なわけですが、その手つきはマックス・ウェーバーの、なぜカルヴァン派だけが資本主義化のモーターたり得たのか?を問う比較宗教史研究を彷彿とさせます。

オーストリア帝国は民族単位で統治されていました。明らかにイギリスの階級社会、フランスの国民国家と対比されています。また、帝国支配というのは官僚制を発達させます。ウェーバー流の近代的な官僚制であれば、手続き的な正当性が必要で、その手続きが誰の目にも明らかでなければならないのですが、帝国における官僚制はそのままでカフカ的な「城」です。
民族主義と官僚制、この2つだけをみれば、いかにもそこから全体主義が誕生してきそうにも見えますが、帝国支配下の諸民族というのは、たしかに悪質ではあるんですが「分割統治」によって住み分けられていたわけです。その2つだけでは全体主義には足りない、ということです。

そしてイタリアは、ふつうドイツなどと同類と見なされるわけですが、アレントによれば「ファシズムではあるが全体主義ではない」ということになります。それじゃ全体主義って何だ?という話はあとでするとして、イタリアのファシズムは、コーポラティズムの変種と位置づけられます。階級、国民国家、民族・・・etcを主導原理とする前3者に対し、イタリア社会は地域や職域を中心に編成されるという、そうした対比があって、そうした対比のなかで、ケインズ主義やニューディール型の自由主義と比肩される格好で、資本主義の限界を克服する1つの選択肢としてイタリアのファシズムがあったわけです。
イタリアのファシズムにも当然問題はあるわけですが、しかし、「起源」の行論にとって重要なのは、それが絶滅収容所を生み出さなかったということです。

ちなみに、イタリアのファシズムといえば「未来派」の問題があって、アレントも「人間の条件」の冒頭で軽く触れてたりします。論者によってはファシズムの諸相を語るに際して見逃せないところですが、・・・これは「起源」の問題意識からすると脇道のようです。

いずれにせよ、これらと異なる位相に大陸帝国主義の種族的ナショナリズムがある、という話になっています。

その種族的ナショナリズムについては、具体的には著作を見て頂くとして、ここではいくつかのポイントだけ拾い上げます。

まず、大陸帝国主義が海洋帝国主義に遅れをとり、・・・それゆえにある種の悲惨な状況に直面し、その悲惨さを克服しつつ、そのうえで帝国主義的進出に乗り出すための、みずからを正当化する論理を必要とした・・・、つまり、反動形成という力学のなかでこそ新たな神話が捏造されていったのだということは、まぁ、それほど無理なく理解できるところだろうと思います。
従来型の民族神話では膨張運動の論理たり得ない・・・、控えめに言っても、そこで従来型の民族神話の読み替えが起こったわけでした。

その読み替えにおいて、種族的ナショナリズムは過去へ過去へと遡って、民族の起源神話を捏造します。たしかに、そうした神話の構築はどんな民族でもやるだろうし、それだけみればそれほど特徴的ではありません。
しかし、問題なのはそれが何の陰画になっているか、ということだと思います。つまり、一方には啓蒙主義や海洋帝国主義があるわけで、それらによって未来を塞がれているからこそ、過去へ過去へと撤退しつつ、反撃の機会を狙おうとするわけです。そのさい、往々にして「敵」の手法を模倣することになるますが、種族的ナショナリズムもまたそうでした。

1つには、まえに「増殖の思考」について触れました。増殖というのは「膨張」と言い換えてもいいし、「無限の運動」とも言っていいのですが、これが取り入れられます。
2つめに、啓蒙的知性は徹底的に軽蔑されます。もちろん啓蒙的知性というのは過度の人間中心主義に陥って、自然に対する介入-改造主義にもなるわけですが、種族的ナショナリズムは啓蒙主義を軽蔑しつつも、しかし「○○中心主義」に居直る点、あるいは改造主義的な性格については、知ってか知らずか、いずれにせよ模倣してしまいます。

つまり、その民族の歴史や現在の必要に照らして頼るべき原点をさぐったり、規範となる神話の構築を試みるというのでなく、必要限度を超えてどこまでも過去に遡っていくわけです。そして、そうやって構築された神話はまさに改造主義的に、パッチワークのように「でっちあげられた」ものとなります。
ほとんど怪文書と言っていいのですが、ところが、シニックなモッブたちは「ウソだから何なの?」というメンタリティを身についています。ですから怪文書が、怪文書にもかかわらず流通し機能してしまう条件があったというわけです。そうした神話は、ただの神秘主義を超えつつあったと言っていいでしょう。

なお、どこまでも過去に遡って神話を捏造した場合、とくにヨーロッパの場合には、それが一国主義の枠に収まらないことは自明です。啓蒙主義が人為を過信するとすれば、種族的ナショナリズムは人為的な国境を軽蔑します。ここに、種族的ナショナリズムが国境を超えて膨張する条件、海洋帝国主義とは異なる大陸帝国主義を支える論理がありました。

また、旧帝国下の民族対立であれば、職業や居住形態、あるいは相互の歴史などをめぐっていたわけです。そうした対立や差別は、ときに恐るべき事態に到ることがあるにせよ、接触しないとか生活圏から締め出すとか、そうしたことによって日常的にはやりすごすことができます。差別や対立の社会性、それに対処する社会的な技法があったということがポイントです。

しかし、種族的ナショナリズムは反啓蒙的ですから、人間や社会の営みを徹底的に軽蔑します。その行き着く先にあるのが、純化された生物学主義です。
折悪しく、またもやイギリスで社会進化論や優生学が発祥し、世界的な流行となります。これを取り入れつつ、種族的ナショナリズムは「血の神話」を強化していきます。

生物学主義や「血の神話」のある部分は、われわれの実感や事実にフィットすることもあるので、それ自体は良くも悪くもありえるのだろうと思います。しかし、種族的ナショナリズムの生物学主義の問題は、それが人間や社会の営みを軽蔑し、かつて存在した差別や対立をめぐる社会的な技法のすべてを無化しようと企て、そう主張されるということです。

そこに民族対立があったとして、しかしそれは社会的な妥協によってはどうにもならないのだ・・・。問題は生物学的次元にあって、生存闘争の「闘争」によってしか解決あるいは解消されないものだ・・・、種族的ナショナリズムはそのように考えます。

そののち全体主義は、ユダヤ人問題の「最終駅解決」とは「問題」そのものが消滅することだと言い、絶滅収容所を設立するわけですが、それを先取りするものが種族的ナショナリズムにはあったということです。

ちなみに、人間は生まれながらにして互いに狼である、それが自然状態だと言ったのはホッブズですが、ルソーはそれを批判して、互いに闘争状態に陥ることこそ1つの社会状態なんだと言っています。極端な生物学主義の背後にある社会的条件をみよ、というのは「起源」にも通じる論点に思えます。

なお、こうした生物学主義についてヨリ哲学的に、西欧思想史の文脈で考えたものが「人間の条件」です。あの著作にはそういう側面もあるわけです。

以上、長々と説明してきましたが、モッブのシニシズム、増殖の思考と権力の輸出、植民地の経験と政令の支配、種族的ナショナリズムなど、これでだいたい準備作業は終わりです。

ただ、第1次大戦後に大量に出現した無国籍者と国民国家の限界の露呈(第Ⅱ巻・末尾)、および絶滅政策の主要な対象となったユダヤ民族の歴史(第Ⅰ巻の全体)についても触れておきたいので、本題の全体主義(第Ⅲ巻)についてはまだあとの話になります。(まだⅡ巻の半分くらいしか説明してないわけです)

1点だけ補足します。

以上はいちおう汎ゲルマン主義と汎スラブ主義の双方の説明ということにはなってるんですけども、ドイツの説明に偏っていることは否めません。アレント本人もそのことは自覚してたようですが・・・、ただ、こういうことがあるんです。

種族的ナショナリズムがドイツ以東、ロシアまで一般的に見られた現象だとして、生物学主義に急傾斜していく性格があったことは述べたとおりです。そのさい、「(生物学的な)運命に身を委ねる」のが1つの特徴で、その「運命書」はほとんど怪文書的なレベルだったことも述べました。

しかしロシアの場合、問題がいわば2重底になっていました。
つまり、一方にはドイツとも共通する種族的ナショナリズムがありましたが、他方には、西欧思想史の1つの結晶とも言うべきマルクス主義の問題があったわけです。

マルクス主義の内在的な批判は「起源」以降の話になりますが・・・、少なくとも「起源」において、ロシアの全体主義がマルクス主義をうけとるやり方は、「(理論的な-生物学的ではないけれど)運命に身を委ねる」というものだったとアレントは言います。
その形式は同じです。
狭義の種族的ナショナリズムが人間や社会の営みを否定するのと同様に、ロシアのマルクス主義も個人の役割を否定して、「理論法則」に従属することを強いようとし、ある部分では成功を収めます。

だから、以上の説明はいちおうロシアの全体主義にもあてはまるんだ、というのが「起源」段階でのアレントの立場なんです。
とはいえ、やはり「怪文書」と「西欧思想の精髄」とが同じ役割を果たしてしまうというのは一体どういうことだ?・・そういう疑問が残ったわけです。
それがのちのちの課題になっていく・・・という点だけ言い添えておきたいと思います。

* 意外に何も見ないでもここまで書けるものだなぁと我ながら感心したりする部分もあるのですが、とにかく自分流の用語を多々あちこちで使っているので、間違ってもこれがアレントそのものと誤解なきよう。。。ようするに、とても不正確な要約であります、おそらく。

(5)国民国家の限界

プル要因としてのモッブの大量出現、そしてプッシュ要因としての植民地の経験や種族的ナショナリズム・・・etcがあったとして、全体主義のまえにはまだ国民国家という障害がありました。これが限界を露呈したことをアレントは重視します。

ちなみに明治以降の日本の場合、国家が十分近代的でなかったことが軍国主義に走った原因だ、とされることがあります。他方、今日では、そもそも近代国家には全体主義化していく傾向が孕まれているんだ、という議論もあったりします。
それらに比べると、アレントの議論は、国民国家が没落したがゆえに全体主義が出現しえたのだということで、やや把握の仕方にズレがあるように見えます。あるいみでは、国民国家が十全に機能したならば全体主義の歯止めになっただろうという、そうした立場に与するかのようにでもあります。
ただ、おそらくは国民国家が最初から持っていた限界が、実際に露呈するか否かが大きかったという、そういう把握の仕方なのではないでしょうか。限界がはっきり露呈したがゆえに、国民国家のタテマエ-理想が自覚的に破り捨てられ、さらにはタテマエを逆手にとる格好で、正反対の方向へと急速に転落していくという、そうした理解のように思います。

そうした限界は第1次世界大戦の終結後に露呈します。

旧帝国が解体して諸民族が帝国のくびきを離れたとき、秩序再構築の基本ドクトリンとなったのが「民族自決」でした。
もともと国民国家、ネイション・ステートは、日本語に訳すと国民国家のほかにも民族国家と呼ばれたりするわけで、その性格は多義的でした。前者(国民国家)の場合、国家のもとではどんな民族出身であろうとも平等に扱われねばならないという理想があって、これは民族を超えようとします。フランスがその典型です。これに対して後者(民族国家)は、他民族に従属することなく、その民族が主人公となれる国家を築こうという理想を抱いています。旧帝国が解体したときに強調されたのが後者のほうでした。

ところが、民族自決という理想は、無数に存在する少数民族にとっては過酷なものでした。少数民族に限らず、たまたまその歴史的経緯からして、自前で国家をつくりあげる能力や経験を持たない民族はたくさんいました。それらにむかって「さぁ、国家をつくれ」と言ったところで、路頭に迷うだけでしょう。実際のところ、国家をつくれなかった民族は流民となり、そうした難民が大量に発生したわけでした。
「自決権」というのは能力を有する者のためだけの、「強者の論理」となりうるということが、ここに示唆されています。

そうやって流民となった人々はどうしたか。
「民族国家」の理想は破れたので、彼らはすでにある「国民国家」の庇護を受けようとします。ところが、大量の流民をすべて受け入れることは到底不可能と言って、既存の国民国家は徐々に門戸を閉ざすようになっていきます。
「人間」の諸権利とはすなわち「国民」の諸権利であり、それは税金を払った者のためだけにあって、国家はそれ以外の者に関知しなくてもよいという、あられもない現実がここで露呈したわけです。

こうして「無国籍者」の「群れ」が現れ、そしてそれは「解決されざる問題」としてヨーロッパ世界に突きつけられたわけです。

アレント自身もナチス台頭後に亡命する過程で無国籍者になった経験があって、自分を守ってくれる存在が何もないことの恐怖を痛切に感じたといいます。端的に「国民国家は役に立たなかった」という思いもあったかも知れません。
(「起源」は、そうした私的な感想を何1つ表に出さずに書かれていますが、体験談としての側面も濃厚にあります)

ただ、そうした恐怖の感情を、単なる心理的なものとだけ捉えるべきではないように思えます。つまり、国民としての権利を失うということは、すなわち人間としての権利が保障される根拠を失うことであって、人間として扱われない「可能性」に直面することでもあるからです。
すでに触れたように、「すべては可能」という思想状況が生まれつつありました。だから、人間として扱われない可能性は現実的なものでもあったわけです。また、無国籍者の群れはヨーロッパ世界にとって「処理すべき問題」として立ち現れており、そのとき1人1人の無国籍者は顔のある人間としてではなく、匿名の、問題を構成するただの一部分としてまなざされたわけです。そして「処理すべき問題」を解決-解消しようとする圧力のなかで、個々の無国籍者は「マスとして」、一括処理される対象でしかなかったわけです。

これは過度な怖れでしょうか。
そういう面もあったと思いますが、少なくとも、このすぐあとの時代に「処理すべき問題」といわれた「ユダヤ人問題」は、彼らが地上から消滅してくれれば問題そのものが究極的に解決されるのだとされ、無権利状態につきおとされたあげく、人間ではなくゴミとして焼却炉に放り込まれ、一括処理がめざされたわけでした。
アレントは、のちの全体主義における視線と、ここでの無国籍者に対する視線とに同質なものを見、これを全体主義が台頭する前段階と位置づけたわけです。

たしかに今日であれば、「国民の権利」を失った存在をただちに「人間の権利」を失ったものとして扱うことはないでしょう。当時でもそうではあったはずです。
ただ、イグナティエフが言うように、現代では「権利のインフレ」が起き、サンショウウオまでが法廷に立つ一方で、「○○には権利が認められないから××は正当化される」という論法が、依然として強力に生き残っています。暴力のふりむけられる対象が、生の人間から自然や胎児や精神障害者などへと局限され、よりシテマティックで隠微な作用の仕方へと変容しているという違いがあるだけのようにも思います。
しかし、これは「起源」とはまた別の問題かも知れません。

この節の最後に確認しておきたいのは、欠如した存在をめぐるストーリーが、ここで2重に交錯している点です。

モッブが社会の中軸を占める状況を大衆社会といいますが、アレント流のモッブ概念は、「根を失った」とか「脱落者」とか、欠如性を強調したものでした。そうした欠如性は、大衆を嘲笑うかにみえる、いわゆる専門家により濃厚という説もあるわけですが、そうしたモッブが資本やエリートと同盟を組んで、やがて支配体制に食い込むというのが1つのストーリーでした。
支配体制に食い込んだモッブは、自身がゴミであるという意識をもちつつ、やがて他者をゴミのように扱おうとするでしょう。

そして大量の無国籍者という新たな問題が浮上します。無国籍者とは諸権利を欠如した存在です。そして諸権利を失っているがゆえに、まさにゴミとして扱われる可能性をもった存在でした。少なくとも、それは「まとめて」処理すべき問題とみなされました。

そのうえさらに、第3の欠如的な存在としてユダヤ人がいるわけです。
これについて、つぎに触れます。

・・・「起源」の構成からいえば、反ユダヤ主義は冒頭の第Ⅰ巻で触れられます。全体主義といえば、スターリン主義までを含めて、その中核には反ユダヤ主義があったわけだから、当然の構成です。
ただ、あまりにユダヤ人のことに囚われると近代社会に通底する問題の総決算的な位置に、あるいはカタストロフの果てに全体主義があるという筋道が印象づけられないと思って、最後にとっておいたわけです。
そのあたりのこと、ご了解ください。

* 「ウィルソンvsレーニン」という問題設定がこれのこと。

* アレントは「社会」と「政治」とを区別して、前者を批判的に見ています(「人間の条件」)。
また、「社会問題」という立論の仕方はじつは特殊なもので、そういう論理構成にあってはテクノクラート的な「(オートマティックな)処理過程」をほぼ必然的に随伴するものだと考え、やはりそれにも批判的だったりします(「革命について」)。
さらに、アレントは「権力」と「暴力」とを区別して、前者が「(彼女が好意的と捉える)政治的な」承認関係を必要とするのに対して、後者は、そうしたものを一切認めずに突きすすむ力と見なしました(「暴力について」)。
無国籍者をめぐる問題意識には、やがて後続する著作のなかで展開される考察の萌芽があったわけです。

* 北朝鮮が崩壊して大量の難民が発生するとすれば、周辺諸国の生活が圧迫されるという問題だけでなく、一部のひとは加害者にまわるだろう・・・ということもまた問題のように思えます。

【3】ユダヤ人

「起源」第Ⅰ巻が反ユダヤ主義というタイトルです。
ユダヤ人憎悪というのは昔からあるわけです。だから、反ユダヤ主義を論じるとなると、編年体で順々に差別の歴史を追い、それが極度に嵩じた最悪の事態としてアウシュビッツを位置づけるという、そんな内容が想像されます。しかし、それだと全体主義を単に反ユダヤ主義を組織化したものとしか理解できないことになりかねず、あまりよろしくありません。

第1に、反ユダヤ主義が世紀末以降に再燃したものだという、その近代的な条件を見逃すことになります。
第2に、再燃した反ユダヤ主義は燃え上がってからいったん沈静し、ただそれだけでは全体主義へとつながらなかったわけです。
ようするに全体主義は、新たな反ユダヤ主義が登場し、それを燃料としながら、さらに別次元において成立したものでした。
ふつうの差別であれば、突発的に大量虐殺が起こることがあるにせよ、組織的かつ計画的に、一民族の完全消滅を企てるということはありえないでしょう。

ところでユダヤ教は言うまでもなく一神教ですが、一神教というのは宗教史上、それなりに特異な位置を占めています。原始的な諸信仰は多くの場合に多神教なわけですから。
この点については、ウェーバーが、「古代ユダヤ教」のなかで論じています。言うまでもなく、一神教を最高段階とする発展史観などではありません。ただただそれが成立する歴史的条件を考察し、その歴史的条件ゆえに成立した信仰の個性や特殊性を語っています。

そのなかで、たびたび繰り返された「神殿破壊」がユダヤの神に、神殿という場所性から切り離された抽象性や普遍性を与えたことが書かれています。これがユダヤ教の特質の一端を形成するのですが、詳しくは立ち入りません。

ただ、つぎの点だけ確認しておきます。。
ユダヤ民族は「神殿破壊」によって独特の信仰を成長させただけでなく、あるいみ最初の「故郷喪失者」となりました。
故郷喪失者というのは定住者にとって不気味な存在です。
というのも、定住者の多くは農耕によって生活し、そのなかで農村的な価値観を育てていきますが、しかし農村的価値観からすれば、ユダヤ民族の価値観は著しく異なったものにみえたからです。

そのさい大きかったのは、おそらく貨幣との関わりでしょう。
自足的な農村共同体の内部にいる限り、ひとびとは貨幣を知らずに生活することもできます。
ところで市場は、共同体の果てるところ、共同体と共同体の<あいだ>にはじめて成立し、その市場における媒体が貨幣なわけですが、貨幣は諸共同体の生活を補完する役割を担いつつ、農村内部に侵入することは慎重に禁じられてきました。いったん侵入すると、農村共同体の秩序を破壊しかねないからです。
そして故郷喪失者たるユダヤ民族は、まさに貨幣にたずさわることで生き延びてきたわけです。そうするしか生存の途がなかったから。
しかし、現在でも「お金は汚らしいものだ」という観念が生き残ってるように、貨幣に関わるということは差別の対象になり得ました。たとえば高利貸しによって生計を立てていると「不労取得」として忌み嫌われ、冷酷な取立て屋、あるいは事業に成功しても「不当なやりかたで蓄財したヤツ」というレッテルを貼られたわけです。

ここに尾ひれがつくと、ユダヤ教の終末思想などが何かの陰謀とか見られたりもするのでしょうが、ともあれ、このあたりに歴史的なユダヤ人差別の出発点があったということだけ確認できればと思います。

しかし長い歴史のなかでずっと差別されてきたとはいえ、ユダヤ人にまったく居場所がなかったわけではありません。

たとえばさっき触れた貨幣市場がそうです。
差別されたがゆえに彼らはそこでしか生きられなかったのですが、しかしユダヤ人に独占された貨幣市場をまったく無に帰するわけにもいきません。だから、貨幣市場が必要なように、それに精通したユダヤ人もまた必要とされました。これは差別と両立するわけです。
市場というものが共同体に寄生し、その市場に寄生するのがユダヤ人だとすれば、共同体の住人たる非ユダヤ人もまた、市場やユダヤ人に寄生していたと言ってもいいと思います。

あるいは外交の場面も同様の例でした。
ユダヤ民族は中東からヨーロッパにかけて故郷をもたずに点在していたので、どの国にもいました。そして王国同士に緊張が走って場合によっては戦争にでもなったりすれば、味方と敵国の双方にいるユダヤ人は便利なパイプとなったわけです。諸王朝はこれを利用します。だから、なかには相当栄達したユダヤ人もいたといいます。

いずれにせよ、ユダヤ人は差別され特殊な境遇におかれていたために、かえって政治や経済において中心的な役割を担うこともあったわけです。
ポイントは、差別されたにもかかわらず居場所があったこと。そして、むしろ一般の人々以上に富や権力に接近しうる場合があったこと。さらにいえば、そうした居場所は前近代的な状況のなかでこそ可能だったのであって、近代の到来にともなって、彼らの居場所を支えた条件は徐々に失われていったということです。

近代以前の社会というのは、おおむね共同体中心の、市場を周縁に位置づけるようなありようをしていましたが、それが逆転し、市場が社会の中心へと躍り出てくる趨勢を「近代化」と定義するのは、やや大雑把すぎるとはいえ、それほど外れてはいないと思います。端的に資本主義化と言ってもいいのですが。

そうしたなかで、人々はこぞって市場に参加していきます。そうすると、まさにユダヤ人と同じ土俵で競争しなければならならくなるわけです。
それまでは棲み分けられていました。しかし同じ土俵で戦うことになって、そこで差別が解消されればよかったのですが、そうはうまくいかず、差別は温存されます。そうするとどうなるか。市場からも排除するわけです。もちろんただちに排除が成功したわけではありませんが、居場所を追われるような空気が、まさに資本主義化とともに強まっていきます。

また、近代化とともに一民族一国家という考え方も強まってくるわけですが、そうすると、ユダヤ人は民族国家にとって不純な存在のようにもみえてきます。それだけでなく、ユダヤ民族はヨーロッパ全土に散在していたので、敵の国にいるヤツがうちの国にもいる、まるでスパイのようだということになったりします。
ようするに旧帝国の退場と近代国家の登場によって、それまでなら外交という活躍の場が残っていたユダヤ民族から、それさえも失わせる傾向が強まっていくわけです。

そのうえで最初に触れたこと、つまり、モッブたちが「あらゆる階級から零れ落ちて」いくときに、たとえば投機の失敗による大打撃などがあったということが思い出されます。
このとき、ユダヤ資本は依然として大儲けしています。そして依然として少なからぬユダヤ人が権力と癒着していた。しかも、強烈な汚職事件が発覚するわけです。パナマ運河疑獄です。

こうしてモッブのユダヤ人に対する憎悪は加速していきます。そもそもユダヤ人は金と権力の象徴であって、そうした金の世界、資本主義こそがわれわれを転落せしめた元凶ではないか。・・・こうやって、いわばモッブは「格好のターゲット」をユダヤ人のなかに見つけたわけです。関係あることないこと、みんなひっくるめて憎悪は加速し、そこに様々な妄想を巻き込んでいきます。

アレントは、自身がユダヤ人であるにもかかわらず、このときのユダヤ民族には必ずしも同情的ではありません。汚職や癒着をわざわざ擁護する必要はない。ただ、このめぐりあわせの悪さがのちの反ユダヤ主義の高揚を生んだこと、その不幸を理解すればいいのだろうと思います。

ところで、ユダヤ人と非ユダヤ人の融和?をはかる動きもなかったわけではありません。「同化ユダヤ人」というのがそれです。この場合、ユダヤ人がユダヤ的な習俗を捨てて周囲に同化しようとするわけです。
一見真摯な態度に見えます。おそらく真摯なんでしょう。ところが、同化ユダヤ人に接したときの決まり文句はこうだったと言います。「ユダヤ民族はダメだが、おまえはいいヤツだ」と。
あるいみ個人救済の考え方で、差別意識が根強い場所では「ないよりあったほうがいい」とも思いますが、ただ、そんなものは民族絶滅政策のまえではまったく無力だったことがのちに証明されます。

それよりも、アレントは、同化ユダヤ人を誰が歓迎したかを問題にしています。同化ユダヤ人たちは彼らを受け入れてくれるサロンに居場所を見つたわけですが、世紀末のサロンとは一体どういう場所だったのか、と。
そこは私的な集まりです。そして、私的な自由を謳歌する空間でした。ところが、サロンの人々によれば、私的空間は社会の干渉を許さない不可侵の領域であって、まさに社会的には許されないこと、たとえば犯罪などを美化していい場所がサロンでもあったわけです。とりわけ世紀末以来の頽廃的状況にあって、サロンはそういう場所でした。
彼らサロンの人々がユダヤ人を歓迎したのも、ようするに危険なものを喜ぶ雰囲気からそうしたのだとアレントは見ています。そして、そうやって危険なものや犯罪を喜ぶ風潮は、全体主義の台頭を支える因子にもなっていくわけです。

「起源」第Ⅰ巻の最後の章では、フランスで起こったドレフュス事件が扱われています。アレントは、これを「全体主義の予行演習」と言っています。ユダヤ人将校にスパイ容疑をかけ、法的手続きをすっ飛ばして投獄した冤罪事件です。
ユダヤ民族全体を対象にした事件ではありませんが、この事件をつうじて、とくにフランスでいえば前時代以来の遺産、「法の支配」という観念を反ユダヤ主義が突き崩した瞬間でもありました。まえに触れた「国民国家の限界」を語る1つのエピソードでもあるでしょう。

投獄に対する批判も根強く、そのいみでは反ユダヤ主義の突出がやすやすと許されたわけではありません。しかし、ドレフュス擁護派は結局のところ多数派にはなれず、誤審が明らかになったあとでさえ、フランス社会は後始末をずるずると先延ばしにし、自分たちの力で決着をつけることは最後までできませんでした。ここでドレフュス派は、徐々に敗退していったといえます。

事件に一応のケリをつけたのは首相クレマンソーの個人的な決断でした。
クレマンソーは、ドレフュス派で活躍したゾラを賞賛はするものの、ゾラが熱心に大衆に語りかけた点については警告を発しています。多数派-大衆がつねに正しいとは限らないのだ、と。
アレントは、ここで「たったひとりのクレマンソー」という表現をしています。
多数が従うものを「道徳」と呼び、多数がどうあれ個が問われる瞬間にそうあれというものを「倫理」と呼ぶとすれば、このときのクレマンソーは倫理的でした。その倫理的なクレマンソーをアレントは評価したわけです。
(「イェルサレムのアイヒマン」でのドイツ将校、アントン・シュミットの扱いも同様かと思います)

そうやって光輝あるエピソードを挟みつつ、ヨーロッパ全土にじわじわと浸透しつつあった反ユダヤ主義の高揚は、いったん収束します。ツヴァイクのいう「黄金の安定期」を迎えるわけです。
しかし、そのあいだに着々と全体主義を準備する条件が整っていくわけです。ここまで書いたこと、「起源」でいえば第Ⅱ巻がその話になります。

くどいかも知れませんが、最後に反ユダヤ主義についてまとめのようなものを。

ごく素朴に言って反ユダヤ主義の高揚は、「まるでユダヤ人のように」貨幣に手をつけねばならず、それに翻弄された人々が、じぶんの自己否定的な意識をユダヤ人という他者に転化して発生してきたものだと言えるように思います。

また、自分自身が「根を失って」いる状況を否定し、自分にはアーリア人という根があるのだと言い、長いあいだ自分自身と同じように「根無し草」だった他者-ユダヤ人のほうを否定する側にまわるという、そうした回路もありました。

その際、自分を肯定しくれる神話なら「ウソでも」よかったわけです。そのウソは、まさに「自分たちは選ばれている」という選民意識であって、それは彼らにとって「敵」であるユダヤ民族から借用したものでした。
また、ユダヤ人が歴史を司る神を信じ、終末思想を信じていることを嘲笑っておきながら、自分たちはユダヤ人が歴史を操っているという陰謀史観を信じ、ユダヤ禍による終末を信じたわけでした。

モッブがすがりついた神話は「血の神話」です。これはもともと貴族階級に特有なものでした。貴族というのは昔から婚姻によって各国で結びついていて、これをアレントは貴族インターナショナルと呼んでいます。しかし、貴族における血の神話はその家系が守ってきた文化への信頼とも結びついていたはずですが、モッブたちは「ただの血」を信じました。
劣化コピーと言っていいでしょう。

さらにいえば、モッブたちは貴族インターナショリズムを憎悪し、ユダヤ人インターナショナルも憎悪したわけですが、種族的ナショナリズムに基づいて他国を侵略し、そうやって自民族がインターナショナライズしていくことは肯定しました。
敵に勝つためには敵と同じことをしなければならない、ということでしょうか。

ここに、処理すべき問題としての無国籍者たちの問題や、犯罪を美化する文化、あるいは植民地の経験などが重なっていきます。

そして、自分自身がゴミであるという意識に苛まれたモッブたちは、最後に「ゴミ掃除をやるんだ」という政治家と政党を拍手喝さいをもって迎えたわけです。

〔か〕